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うはwのHP。のTylor(タイラー)です。日常とFF11を綴っています。
 
続き。
  
日本側の迎撃態勢
対馬から脱出した小太郎・兵衛次郎の二人の活躍に
より元襲来の情報を得ていました。

押し寄せる蒙古軍の敵情を仔細に収集し一族郎党が
全滅しながら一秒でもはやく着くために、三日三晩
船を漕ぎ続け、博多の総大将・景資に蒙古軍襲来を
報告したと言われています。
 
大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発すると
ともに九州の御家人が大宰府に集結していました。
 
ところが、薩摩や日向、大隅など南九州の御家人
たちは筑後川の神代浮橋(くましろうきばし)を
渡らなければならず、元軍の上陸までに博多に到着
することは難しかったのです。

これに対して筑後の神代良忠(くましろ よしただ)
は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州
の諸軍を速やかに博多に動員。神代良忠は、元軍撃
退に貢献したとして幕府から感状得ています。
 
 
博多湾上陸
10月20日、元軍は博多湾に襲来。
 
 
後に捕虜とした元兵の証言によれば、10月20日
に早良郡の百道原へ上陸。元軍の主力部隊である
蒙古・漢軍であった。
 
さて、ようやくここら辺から
地元民ならではの情報を入れていきます。
 
福岡での戦闘がどうであったのか?
 
現在も通じる地名がたくさん登場しますが、当時
の海岸線が現在とまったく違っており混乱します。
 
 
現在の福岡市都心部の地図。


平安・鎌倉時代の古地図。
 


有志が作った現在の海岸線との比較。
 


現在の天神・中洲や大濠公園など都心部は
ほぼ湾や干潟であり戦場となった場所が都心部
であった訳ではありません。
また、博多の町が焼き払われたと言われて
いますが実際に博多の街の被害は1次資料では
見られていません。
公家が伝聞を元に書いたものなどです。
 
上陸したとされる現在の百道浜は下の写真の
ように開発されましたがここはほぼ埋め立て
られており、当時の海岸線は写真よりずっと
左側になります。




早良郡の百道原より上陸した元軍は約3km東の
赤坂山(現在の福岡城跡)を占領し陣を布く。
赤坂は丘陵となっており博多攻防の戦略上の
重要拠点でした。
 



一方、日本軍は
総大将・少弐景資の下、博多の息の浜にほぼ
全軍が集結しており、そこで元軍を迎撃しよう
と待ち受けます。
 
右側の赤い大きな矢印の場所が息の浜。
本隊の場所です。



博多の息の浜に陣を布く日本軍の
総大将・少弐景資とその手勢。

 
 
日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた
理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、
騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには
不向きであるため、元軍が博多に攻めてくる
のを待って、一斉に騎射を加えようという
判断から。
 
ところが、日本軍の中には武功を望む武将の
鼻息がメチャメチャ荒いんです。

待ちくたびれたのかわかりませんが
作戦をまったく聞きません。
 
 
赤坂の戦い
赤坂に陣を布いたと知った、肥後の御家人

菊池武房

軍勢230余騎を率いてすぐに向かいます。



赤坂の松林に陣を布いた元軍数千、およそ
10倍の陣に
襲い掛かります。すごい。

当初は矢戦から始まったものと思われるが、
次第に白兵戦へと転換。その様子は、上に
なり下になりとり重なり打ち合うという
乱戦で、菊池詫磨軍は半分以上
約百数十名が死傷。

しかし元軍を上陸地点の早良郡のうちにある
麁原(そはら)へと敗走させます。
  
しかしさすがに半数の兵を失った彼は
敵将の首など戦果を得て本陣へ帰ります。

ここで後の世で有名になる人物とすれ違います。
肥後の御家人・竹崎季長とその主従合計5騎。
菊池軍が博多から赤坂へ向かった時、季長は
景資に元軍に対して先駆けを行うことを申し
出て、総大将の景資の許可をもらい出陣。

菊池と違って真面目です。

季長は手勢五騎で敵を求めて赤坂の元軍に
向かいますが西へ移動中に、赤坂での戦闘
で勝利した菊池武房勢100余騎と遭遇。

その様子が下の画像。
 
※多くの元兵の首を打ち取って帰陣する
菊池武房の手勢。
ちょ~カッケ~~って思ったはずです。 
 

赤坂の戦い追撃戦
赤坂の戦いで敗走した元軍の大勢は、
小高い丘である麁原山(そはらやま)が
ある麁原へと向かい陣を構え、小勢は
別府(べふ)の塚原に逃れます。

   

塚原に逃れた一部の元軍は、麁原の元軍
本隊に合流しようと早良郡にある鳥飼潟
(とりかいがた)を通って逃れようとし
ましたが、竹崎季長ら日本軍がそれを
追撃します。
 
 
しかし、竹崎季長は馬が干潟に足を取られて
転倒したため、元軍小勢を取り逃がして
しまいます。絵でも元軍は逃げていますね。
 
 
鳥飼潟の戦い
麁原一帯に陣を布いていた元軍は
銅鑼や太鼓を早鐘のように打ち鳴らして
ひしめき合っていました。
 
 
麁原山の元軍の様子
 
 
麁原山は現在祖原山となり公園として
整備されています。
 
 
 
これを見て先駆けを行おうとする竹崎季長に
対して、郎党・藤源太資光は「味方は続いて
参りましょう。お待ちになって、戦功の証人
を立ててから御合戦をなされよ」と諫言。
 
5人ですから。
 
しかし竹崎季長はそれを振り切り「弓箭の道
は先駆けを以って賞とす。ただ駆けよ」と
叫んで、元軍に先駆けを行います。
 
まさに、ちょwww待てよ!!ですね。
 
 
元軍も麁原から鳥飼潟に向けて前進し、
鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と
衝突します。
 
ここのシーンが有名なあの絵になります。
黒い馬にまたがるのが5騎で突っ込んだ竹崎李長。
 


僕らの学んだ元寇ではこの絵を根拠に
一対一で戦う原始的な戦いと教えられましたが
実はこの人の独走な訳です。
 
この絵巻は左右にさらに描かれており、右側に
集団で陣形を組み助けに入る白石軍勢の騎馬隊が
しっかりと描かれています。
 
 


戦後教育の自虐史観だったのかどうかは
わかりませんが少し前まで、当時の日本軍を
弱くみせたかったのかもしれません。
 
また、この国難に祈祷などが多いに
行われましたので軍が打ち負かしたというより
神風で救ったとしたかった神社側の
思惑もあったと思われます。
 
 
竹崎季長主従は、元軍の矢を受けて竹崎季長
三井資長、若党以下三騎が負傷するなど
危機的状況に陥ったが、後続の肥前の御家人
白石通泰率いる100余騎が到着し、
 
元軍に突撃を(上の集団戦をしかける騎馬隊)
敢行したため、元軍は麁原山の陣地へと
引き退くことになります。強いです。日本軍。
 
同じく鳥飼潟に駆け付けた肥前の御家人
福田兼重の文書によると、早良郡から元軍が
上陸したことを受けて、早良郡に馳せ向かうよう
武士らに下知が下り、早良郡へと向かった
福田兼重ら日本軍は、鳥飼潟で
元軍と遭遇して衝突。
 
豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)は
鳥飼潟の戦いにおいて奮戦しました。
 
これら武士団の奮戦により、元軍は鳥飼潟に
おいて日本軍に敗れ、上陸したとされる
百道原へと敗走していきます。
 
この鳥飼潟の戦いには、日本軍の総大将
少弐景資や大友頼泰が参加していたものとみられ
この戦闘に参加した武士も豊後、肥前、肥後、
筑後等九州各地からの武士の参戦が確認されるこ
とから、鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた
文永の役における一大決戦と思われます。
 
なお、文永の役の戦闘で、現存している
当時の古文書で記録があるのはこの鳥飼潟の戦い
のみであり、合戦に参加した竹崎季長が描かせた
『蒙古襲来絵詞』詞四に記載されている赤坂の
戦いとこの鳥飼潟の戦いが、文永の役の主戦闘
だったとみられます。
  
 
百道原・姪浜の戦い
鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を追って、日本軍は
百道原まで追撃をかけます。追撃に参加した
福田兼重は百道原において大勢の元軍の中に
馳せ入り、元軍と矢戦となり、鎧の胸板・
草摺などに三本の矢を受けて負傷しました。
 
この弓戦があった場所には現在小さな神社が
立っています。
  
その名も「弓田神社」。
 
『財津氏系譜』によると、この百道原の戦い
において、豊後の御家人日田永基らが奮戦し
百道原の戦いで元軍を破り、さらに百道原の
西の姪浜の戦いの両所で1日に2度、元軍を
大いに破ったといいます。
 
また、『武藤系図』少弐景資伝では、百道原
における矢戦の際に元軍の左副都元帥
劉復亨と思われる蒙古軍大将が矢で射止めら
れたとしており、中華民国期に編纂された
『新元史』劉復亨伝にも百道原で少弐景資に
より劉復亨が射倒されたため、元軍は撤退した
と編者・柯劭忞(かしょうびん)は述べています。
 
これらの史料から、元側の史料『高麗史』
の「劉復亨、流矢に中(あた)り先に舟に
登る」とは、百道原の戦いにおいての負傷で
あったとも考えられます。
 
両軍の戦闘は、朝8時頃の開戦で、
戦闘の終結は夕暮れの18時頃でした。
 
 
元軍は船へ引き返します。
 
 
その4へつづく。


少し休憩となります。ふう。



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続き。
 
 
文永の役
 
1274年(文永11年・至元11年)
1月、クビライは大将軍・洪茶丘を高麗に派遣し、戦艦300艘の建造を開始。
5月、元から派遣された日本侵攻の主力軍15,000人が高麗に到着。
同月、クビライは娘を高麗国王・元宗の子に嫁がせ、日本侵攻を前に元と高麗の関係をより強固にする。
6月、高麗は元に使者を派遣し、戦艦300艘の造船を完了させ、軍船大小900艘を揃えて高麗の金州に泊めたことを報告。(高麗負担)
7月、高麗の元宗が死去
8月、新しく第25代高麗国王・忠烈王が即位。日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥が高麗に着任。
 
10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥンを総司令官として蒙古・漢軍15,000~25,000人の主力軍と高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航。
  
  


  

 
 
対馬侵攻
10月5日、元軍は対馬に襲来。
対馬守護代・宗助国は通訳を通して元軍に事情を尋ねさせたが元軍は船から矢を放つ。

7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸し、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦。対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗助国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、対馬勢は戦死。元軍は佐須浦を焼き払った。

 
同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎らが対馬を脱出し、博多へ出航。
 
 
対馬守護代・宗助国の戦死
 
 
対馬の惨状
『高麗史』金方慶伝によると、元軍・高麗連合軍は対馬に入ると島人を多く殺害した。
また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑『金方慶墓誌銘』にも「日本に討ち入りし、捕虜が甚だ多く越す」とあり、多くの被害を島人に与えた。
  
  
この時の対馬の惨状について、役から2年後、日蓮宗の日蓮が当時の伝聞を記している。
 
・ 町を焼き払い、対馬・壱岐の人々のほとんどは殺された。
・ 山に逃れた島民をしつこく捜し、妊婦の腹を裂いては胎児を出す。
・ 乳呑み児の股を引き裂く。
・ 捕らえた男女の耳や鼻を削(そ)ぎ、苦しむさまを見て楽しむ。
・ 少年・少女200人を奴隷として拉致し高麗王へ献上。
・ 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通し数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられた。
 

 
 
ひどい話です。
 
この残虐な被害が伝えられていた為
弘安の役で台風により取り残された10万の元軍に対する日本軍の掃討作戦が、復讐を兼ねた恐ろしいものになったとも言われています。
 
 
壱岐侵攻


10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側、写真の浦海海岸、天が原、湯の本方面海岸に上陸。
壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したが敗れる。
10月15日、景隆は樋詰城で自害。
『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
 
 
元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。
高麗軍は敗走する日本兵を追った。
壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが後になって元軍に攻撃を仕掛ける。
これに対して蒙古・漢軍・高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取った。
 
日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」と記している。
 
その後の弘安の役を含む2回の戦闘で壱岐の人口は二桁までになったと言われています。
 
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。
 
 
肥前沿岸襲来



10月16-17日、元軍は肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来。室町時代の日澄によれば、松浦党は数百人が伐たれあるいは捕虜となり、肥前沿岸の惨状は壱岐や対馬のようであったといいます。  
 
 
元軍は博多湾へ向かいます。
 
 
 
その3へ続く



終わる気がしないぜ。


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みなさん。ご無沙汰しています。

いきなりですが今日より数日に分けて
僕の「夏休み自由研究」をエントリーします。

 
皆さんご存じの
超有名な日本と福岡の一大事。

wikipediaやブログを中心に読んでいて
なかなか面白かったので
メモ代わりに少しずつまとめてみました。
  
なぜいきなり?っと言われてもわかりません。
睡眠時間を削っての突発的な行動。

まあ、ちょっと地域の歴史を
調べる機会があったのがきっかけかなぁ。

ヴァナにインもしていないや・・・
 
ふふふ。(怖)
  
  
  
  
「元寇」
 
  
鎌倉時代、モンゴル帝国5代皇帝

「クビライ=カアン」が
従えた高麗や南宋の兵をもって
2度に渡り日本に攻め込んだ戦い。
海外異民族との国運をかけた大きな出来事です。

 

 
 
神風が吹いて追い払ったっていう
有名なあれですね。
  
まさに戦場となった我が町福岡。

だからといって
特にこれといった集中授業がある訳でもないんすが
小さいころ何気なく遊んだり訪れた丘や緑地や神社
が元寇の史跡だったりすることを
大人になって知ることが多々あります。
 
 
早良区祖原山 元軍陣跡

 
もちろんすでに有名な歴史で
大河ドラマになったり漫画になったり
ブログのエントリーもいくつかありますが
僕も地元の観点からちょっと
書いてみたくなりました。
 
 
 
一般的に言われる元寇の文永の役は
このような感じ。
 
「1274年、高麗軍を含む元軍約3万が九州北部、現在の福岡県の博多湾に襲来。
元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火器など、日本と全く異なった戦術
を得意としていた。元軍の統制のとれた戦術に対し、日本軍は一騎打ち戦法で
挑んでおり、非常に苦しい戦いを強いられる。しかし、元軍は暴風雨により退
却を呼びなくされた。この戦いの後、幕府は異国警固番役の教化、博多湾沿い
に、幅・高さ2m、総延長20kmに及ぶ巨大な防塁・石塁の構築などを行ってお
り、2度目の襲撃に備えた。引用終わり。」
 
 
日本側史料、元朝側史料、高麗側史料、
ヨーロッパ側史料などで歴史研究が進み
教科書で見知った内容とは違う内容が
色々と明らかになっています。

諸説あるのは大前提ではありますが・・・。 
  
  
それでは参りましょう。
   
 
中国の「南宋」を攻略中だったクビライは
硫黄などを含む交易をしてた「日本」へ、
南宋を孤立化する目的もあり、
自らに従わせるべく、まず「使者」を
向かわせることにしました。
硫黄などは火薬の材料となります。
 
そもそもマルコポーロなどの情報から
黄金の国と噂の日本に興味があったクビライ。
従えた高麗などからの進言もあり、
いずれにせよ侵攻するつもりではあったようです。
 
 
世界情勢

 
 
第一回使節
 
1266年(文永3年・至元3年)付で
日本宛国書である「大蒙古国皇帝奉書」を作成。
 

※っていう脅し文句入り
 
 
使節団を高麗を経由して
日本へ派遣したかったのですが
これが日本へは簡単には届きません。
 
高麗側は、人員と戦費の負担を嫌がり
対馬を望む海岸線から海の荒れ方を見せて

航海が危険だとか、日本人はかたくなで
荒々しく礼儀を知らないなど理由に

日本への進出は不要であると使節団を
説得します。
それになぜか納得した使節団は
高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝します。
 
クビライは激怒します。当然でしょう。

高麗の元宗に
「しっかり責任を持って届けるように」
っと命令します。(^_^;) 
 
 
第二回使節
1268年(文永5年・至元 5年)正月、
怒られた高麗の使節団が大宰府に到着。
 
 
 
当時の大宰府の位置関係

 
現在の大宰府跡地
 
 
 
大宰府は1回目に渡せなかった恐喝まがいの
書状含む3通を受け取り鎌倉へ送達します。
鎌倉幕府ではこの年の3月に「北条時宗」
若干18歳が8代執権に就任したばかりでした。
 

 
当時、外交は朝廷の担当であったため
幕府は朝廷に国書を回送したものの対応を巡る
朝廷の評定は連日続けられる展開でグダグダに。
 
時宗率いる幕府も属国になれという
横暴な書状は無視をすることとし
国内には「蒙古人が日本を狙っており、
牒使を派遣してきたとして
蒙古軍の襲来に備えて用心するよう」
御家人らに通達。
 
鎌倉には南宋より禅僧も渡来しており、
モンゴル帝国の暴虐などの報告も
あったとされていました。
 
使節団は日本側の反応がないまま、
太宰府到来から7か月後に高麗へ帰還。
高麗は遣使の失敗の旨をクビライに報告。
 
しかし、クビライもクビライで
使節団の帰還を待たずして
「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと
欲するのみ」と日本征服の意思を表明し、
高麗に戦艦1,000艘(そう)の造船を
命じています。
 
 
第三回使節
1269年(文永6年・至元6年)2月、
クビライは再び使節団を日本へ派遣。

高麗人の案内で総勢75名の使節団が対馬に上陸。
使節らは日本側から拒まれたため
対馬から先には進めず日本側と喧嘩になった際に
対馬島人の塔二郎と弥二郎という2名を
捕らえ、これらと共に帰還。(^_^;)
 
クビライは、使節団が日本人を連れて
帰ってきたことを大いに喜び
その2名に、多くの宝物を下賜し、
クビライの宮殿を観覧。

二人は感嘆。これを聞いたクビライは
さらに喜び、二人を首都・燕京
(後の大都)の万寿山の玉殿や
諸々の城も観覧させます。\(^o^)/
 
 
第四回使節
同年9月、捕えた対馬島人の
塔二郎と弥二郎らを首都・燕京(後の大都)
から護送する名目で使者として高麗人使節が
大宰府守護所に到来。
日本に明確に服属を要求。(>︿<。)

これに対して、朝廷の評定では、
モンゴル帝国の服属の要求を拒否する返事を
出すことを決定。

北条時宗率いる幕府は「無視」を決定!
朝廷に返事もしないことを上奏。
朝廷が幕府の提案を受け入れたため、
モンゴル帝国からの使節は返書を
また得ることに失敗し帰還。ヽ(^o^)丿
 
 
1271年(文永8年・至元8年)9月
元の支配に不満がある
高麗の軍組織「三別抄」が南方海上で反乱。
 
その三別抄は何故か日本に軍事的援助を乞う
使者派遣。
クビライの配下の国からの援軍要請に
朝廷は混乱たが時宗は援軍は送らなかった
とのこと。※1273年(文永10年・至元10年)
4月、元は高麗軍の主力をもって平定。
(三別抄の乱)日本は少し
時間稼ぎができました。
 
 
第五回使節
同年(文永8年・至元8年)9月、
三別抄の使者が到来した直後に
元使である女真人の趙良弼らが
モンゴル帝国への服属を命じる国書を
携えて5度目の使節として100人余りを
引き連れて到来。

クビライは、日本に近い高麗の金州に
軍勢を集結させるなど、今回の
使節派遣は軍事力を伴うものでした。
 
大宰府西守護所に到着したが、
日本側が大宰府以東への訪問を拒否!
やむなく国書の写しを手渡し、
11月末の回答期限を守らねば武力行使も
辞さないと最後通告。

さすがに無視はちょっとヤバいかと
朝廷は評定を行い、ひとまず先に
返書の代わりとして、日本の使節が
クビライのもとへと派遣されることに。

また返書はもらえないものの
日本使とともに帰還の途に就く。
 
 
同年11月、クビライは国号を
新たに「大元」と定める。
  
 
執権・北条時宗は、このような
モンゴル帝国の襲来の動きに対して以下の
ような防衛体制を敷く。
 
同年1271年(文永8年・至元8年)、
北条時宗は鎮西に所領を持つ
東国御家人に鎮西に赴くように命じ、
守護の指揮のもと蒙古襲来に備え
させ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた。
 
 
 
これがきっかけとなり、東国御家人は
漸次九州に土着していく。
  
 
1272年(文永9年・至元9年)、
12人の日本使(『元史』日本伝では26人)
が1月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問。後の北京。
 
 
 
   
 
元側は日本使は偵察だと判断し、
クビライへの謁見は許さなかった。
高麗に駐屯する元軍が日本側を
警戒さていることを知った元の丞相
アントンは日本使に対し、その軍は高麗で
反乱を起こした三別抄に
備えたものと説明するようクビライに進言し、
クビライは採用。
大都を後にした日本使は、
4月に高麗を経由して帰国。
 
 
第六回使節
1272年(文永9年・至元9年)4月又は12月、
元使である女真人の趙良弼ら
は、6度目の使節として再び日本に到来。
 
使節団が到来すると日本の「国主」は
クビライ宛に返書し和を議そう
としたが、南宋より派遣された
渡宋禅僧・瓊林(けいりん)が帰国して
趙良弼らを妨害したため、趙らは
またまた返書を得ることができなかった。
さらに趙良弼らは大宰府より
日本の国都(京都)に入ることができなかっ
たことから、再び元に帰還した。
 
日本に未到着のものも含む合計6回、
日本へ使節を派遣したが、ほぼ無視。
結局返書は出さなかったわけです。
ここがすごいですね。
 
キレたクビライはついに「武力侵攻」を
決断しますが
趙良弼に日本侵攻の無益を説かれ一度従います。
優しいです!
 
 
1272年(文永9年・至元9年)、
北条時宗は異国警固番役を設置。

元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害警護
および博多津の沿岸警固。
同年2月、北条時宗は後嵯峨上皇没直後の
二月騒動で庶兄・北条時輔等を
粛清し幕府の統制強化。
なお、『高麗史』によると、日本側が高麗に
船を派遣して、諜報活動を
行っていたと思われる記述もあります。
すごい・・・。
 
 
1273年(文永10年・至元10年)にクビライは
前言を翻し、日本侵攻の準
備を開始。この時点で、元は南宋との
5年に及ぶ襄陽・樊城の戦いで勝利し、
南宋は元に対抗する国力を失っていた。
また朝鮮半島の三別抄も元に滅ぼされており、
軍事作戦を対日本に専念させることが
可能となっていました。

ついに日本大ピンチです!!!!
  
 
とりあえず第一回はここまで。
 
ってかモンゴル・・・グダグダ・・・
全然進んでいないぜ・・・。
 
 
計り知れないほどの強敵に対して
ここまで無視って

「北条時宗」カッコいい!!
 
 
 
 
その2へ続く。



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ソフトバンクホークスが優勝しました!

今日は朝からテレビ地方版はホークス一色。



僕も昨日は遅くから
ダーツバーにて祝勝会。

マスターとマスター彼女と飲み仲間で
楽しい時間を過ごしました!

マスターは西武ファンなんですけどね(^_^;)

福岡は元々西鉄ライオンズがありましたので
今でも西武ファンは多いんです。
僕の父も西武ファンだったな。

母は熱狂的(年間指定席を一人で購入するぐらい)
なホークスファンになってしまい
僕も好きなんでかじったようなことを言うと

「この小童が!語るな!」扱いです。


もう優勝決まったのが遅い時間でしたが
なかなかみんな帰らず盛り上がりました。


ラブラブを見せつけるようなことは
決してしないマスターですが
たまに見せるアイコンタクトを
みんなしっかり見過ごさなかったですね。

ホステスのアルバイト経験がある
彼女の上手さもあり
みんないつも以上に飲み食いして
売り上げもよかっただろうな。

マスターは大忙しだったけど。


それにしても…


マスタ「タイラーさんこう見えてスケベだから気をつけろよ」

平「ちょwwww彼女にそんな情報入れるんじゃあ〜りません!」

マスカノ「はーい!知ってマース♪」

平「おぃwww  さ、酒持ってこーい(汗)」

飲仲間「酔うのも作戦だからね・・・注意せないかんよ・・フフフ」

マスカノ「でも平さんはそんな人じゃないですもんねー♪」

平「ねー(^_^;)」



しゅ、祝勝会どこいった!

ホークスの話しをしようぜ!!(汗)




マスターの配慮かは分かりませんが
マスターの彼女を僕の隣に配置し色々といじられてしまいました。

他の危険な酔っぱらいよりも実際は信用されたんだろうな・・・


僕が一番「ムフフ」なのを彼は知らない(笑)


なんにしても

いやぁよかった。よかった。

酒が美味かった!


ソフトバンクホークスとファンのみんな

おめでとう!おめでとう!


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クリスマスプレゼントがありました。

知人も皆さんも
ご存じでしょうけれど

僕の言葉や思考の柱であるのは否めない「ASKA」。
その彼が新曲を昨日24日にYouTubeにUPしました。

タイトルは

「FUKUOKA」

彼の復帰に向けた音楽活動を手助けしたという
故郷への感謝を唄っています。

世の中からは袋叩きだけど
誰が何と言おうと
僕には彼の才能を捨てる事は出来ない。

そんな彼が僕の故郷を唄にしてくれて
ちょっと感動してしまいました。

名曲です。



賛否があるだろうから
もうきっと触れないけれど
1度は書かないわけにはいかなかったのです。

皆様にもメリークリスマス。
 

※今回はコメント欄はナシにしておきます。
 
 

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お久しぶりです。僕です。

2016年12月13日からFF11に2度目の復帰。
名前を取り戻すため鯖を移動しました。
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