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うはwのHP。のTylor(タイラー)です。日常とFF11を綴っています。
過去のエントリー
   
「元寇」~その1~

 
「元寇」~その2~
 
「元寇」~その3~

「元寇」~その4~


神風について


何度も書いていますが
 
これまでの元寇に対する認識は

「神社」の記録である
『八幡愚童訓』のイメージが大きいと思われます。
 
しかしこれは事実に基づく内容というよりは
神社側が都合よく作り上げた「ほぼ作り話」です。
 
 
例えば以下のようにあります。
 
 
「上陸し馬に乗り旗を揚げて攻めかかって来た元軍に対して
 鎮西奉行・少弐資能の孫・少弐資時がしきたりに則って
 音の出る鏑矢を放ったが
 元軍はこれを馬鹿にして笑い
 太鼓を叩き銅鑼を打って鬨の声を発したため
 日本の馬は驚き跳ね狂ったとしている。
 
 また、元軍の弓矢は威力が弱かったが、
 鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、
 元軍に立ち向かう術(すべ)がなかった。
 
 元軍に突撃を試みた者は、元軍の中に包み込まれ
 左右より取り囲まれて皆殺された。
 
 元兵はよく奮戦した武士の遺体の腹を裂き、
 肝をとって食べ、また、射殺した軍馬も食べたという」
 
 
はい。
 
元軍は早朝、上陸後陣を作り
夕方には海に撤退している事実を思い出して下さい。
 
大忙しです。
 
先の戦闘が敵味方の資料から事実として残っている以上
遺体を食べるなどというホノボノとした時間的余裕はありません。
 
日本軍、テンション高いしバンバン来てますから。
 
繰り返しになりますが
元軍が苦戦し撤退した様子は『高麗史』の記載の他
日本側の史料でも同様の記載が確認できます。
 
文永の役当時の鎮西からもたらされた飛脚の報告が
載っている日本側の史料『帝王編年記』によれば
 
「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、
 この賊船を留める。志賀島において、この賊船を押し留めて、
 その他の蒙古軍を追い返した」とあり、
 
同じく飛脚の報が載っている『五檀法日記』においても
 
「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」
 と、交戦した武士らが中央政権に対して
 軍事的に元軍を撃退したことを報告しています。
 
また、他の史料と日にちに差異はありますが
『関東評定衆伝』でも
 
「(文永十一年)十月五日、蒙古異賊が対馬に攻め寄せ来着。
 少弐資能代官・藤馬允(宗資国)を討つ。
 同24日、大宰府に攻め寄せ来たり官軍(日本軍)と合戦し、
 異賊(元軍)は敗北した」と明確に日本軍の勝利と元軍の敗北が確認できます。
 
 
鬼畜な元軍に対して日本軍はボロ負けだったが
祈祷により“神風”があり勝利した。
 
「神仏にお祈りを捧げた為、この国は守られた。 武士は必要ない。」
 
そんな神社側の主張のために

“神風”

を最大限利用したと考察されます。
ここまで後の世に利用されるとは当人達も思っていなかったでしょうけれど。
 
 
さらに元軍の撤退理由についてはこう書かれています
「日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃
 
八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが出火した筥崎宮より飛び出して
矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた。
 
恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し海に逃げ出したところ
海から不可思議な火が燃え巡り
その中から八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が
突如現れて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り
たまたま沖に逃れた軍船は大風に吹きつけられて敗走した」

としています。
 
 
まあ、精霊信仰である日本で
何かのおかげでそうなったと思う思想は
今でも通じるものがありますし

まさか1日で逃げていくなんて思ってもいませんでしょうから
遠く離れた安全な都で祈祷ばかりしている方々にしてみたら
話を盛るにはいい事案だったのでしょうね。
 
残虐極まりないモンゴル軍がと来ると
渡来僧から散々聞いていてうわさがある状態。
 
鬼か何かが来ると言われていたかもしれません。
 
戦う武士たちを横目に死ぬ気で祈祷していたら
太宰府から日本軍快進撃と強風で壊滅の知らせ。
 
「これって自分達の祈祷のおかげじゃね?」
 
って思ったかもですね。
 
敵も弱いと話になりませんから鬼強だったと言うしかない。
当時の武士と公家の勢力争いとしての情報戦かもしれません。
 
「もし、この時に日本の軍兵が一騎なりとも
控えていたならば、八幡大菩薩の御戦とは言われずに
武士達が我が高名にて追い返したと申したはずだろう」
 
としながら
 
「元軍がひどく恐れ、あるいは潰れあるいは逃亡したのは、
偏に神軍の威徳が厳重であったからで、
思いがけないことがいよいよ顕然と顕われ給ったものだと、
伏し拝み貴はない人はなかった」と結んでいます。
 
 
公家の広橋兼仲は、日記『勘仲記』の中で

「逆風の事は、神明のご加護」と神に感謝していたり

1276年(建治2年・至元13年)の官宣旨の文言の中にも

「蒙古の凶賊等が鎮西に来着し合戦をしたのだが、
 神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、船を棄て或いは海底に沈み、
 或いは入江や浦に寄せられた。これは即ち霊神の征伐、観音の加護に違いない」

とあり、当時から暴風雨を神の仕業とする認識が存在していたことは伺えます。
 
そうした思想の中で

戦地から遠い都などの人々からすると
リアルな武士の戦闘よりも
神風の方が話題性もあり、信じやすかったのかもしれませんね。
 
実際、幕府も
各神社が自ら語る「祈祷で風を起こしたなどというような」軍功に対して
神領興行令と呼ばれる徳政令を各社に対して3度も発布し、
恩賞に当てていますし。
 
欲も悪くも、この神風は戦時中まで長く政治に利用されていきます。 
当時の武士たちの活躍にもう少し
スポットライトが当たるといいんですけどね~~。
 
 
 
 
おまけですが
文永の役において戦艦・軍隊・兵糧などを支給した「高麗」は、
国力を極度に悪化させ疲弊したそうです。
高麗からクビライの下へ派遣された金方慶、印公秀は、
三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やしたこと、
加えて民は日本征討(文永の役)による戦艦を修造するために、
働きざかりの男たちはことごとく工役に赴き、
日本征討に加わった兵士たちは、
戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により
多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために
今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであること
さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って
飢えを凌ぐ者があるなど、

「民の疲弊はこの時より甚だしい時はなかった」

といった高麗の疲弊した様子を伝えています。

そして、再び日本征討の軍を挙げるならば
小邦(高麗)は戦艦・兵糧の支給には耐えられないと
クビライに訴えたそうです。
 
 
ってか 
元軍が撤退したがっていた時に「ガンガン行こうぜ!」って
ノリノリだったので自業自得かもですけどね。
 
 
文永の役のお話はここまで。
 
まあ、ウィキを映して
まとめただけだけど。
 
 

 
次までやるかはちょっと不明。
 

拍手[2回]

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ご好評につき1年ぶりの続編です。
 
地味に僕のブログの中で
アクセスランキング高いんですよ。

クリックしてるのは福岡人ばかりでしょうけれどね。
  
 
FF関係ないなぁ(笑)
 
 
 
過去のエントリー

「元寇」~その1~
 
「元寇」~その2~
 
「元寇」~その3~


「元寇」~その4~
 
 
 
前回までの流れ
 
第一次元寇である
「文永の役」(1274年 10月5日~11月27日)
 
10月5日に朝鮮半島を出航した元軍はそのまま対馬、壱岐と占領し、
 
10月20日博多湾から九州に上陸し陣を敷きますが、
九州を領地とする侍達の反撃にあい赤坂の戦い、鳥飼潟の戦い、
百道原、姪浜の戦いと次々と敗走。
 
元軍に対して一騎討ちをする日本と教えられてきましたが
しっかり集団戦闘している絵画も残っていた事などご紹介しましたね。
 

 
街は蹂躙され奥地の太宰府近くまで攻められたという話もありますが
実際の戦闘記録は無く、今の都心部近辺で押し返された程度と考えられます。
 
 
両軍の進軍ルート
 
 
 

 
 
最終的に元軍の左副元帥・劉復亨が矢傷を負い1日で海上へ撤退。
 
 
 
 
 
 
ここまでです。日本軍めちゃ強い。
 
 
 
また、元軍が慌てて撤退していった様子を
 
日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は
 
「十月五日、蒙古人が対馬に着く。
 二十日、博多に着き、即退散に畢わる」
と記しています。
来た当日に追い返す。ってどんだけだよ。
 
 
 
 
船に戻った夜。
 
 
 
『高麗史』金方慶伝によると
 
高麗軍司令官と元軍総司令官や右副都元帥との間で
以下のようなやり取りがありました。
 
 
高麗軍司令官
「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、
本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は
却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。
 
我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、
我が軍は自ずから戦うことになる。
 
これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の
『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい。
 
「元兄さん僕らめっちゃ頑張りますんで行きましょうよ」ってことですね。
 
 
元軍司令官
 
「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、
少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、
多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。
 
疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、
完璧な策とは言えない。
 
撤退すべきである」
 
「いやいや、めっちゃ人多いし強いし無理やろ、帰ろう」ってことですね。
 
 
あくまで高麗の記録なので自分達をカッコ良く書いてる可能性があり
嘘かほんとかわかりませんが
少なくとも敵のどちらかは日本軍に意気消沈しているのはわかりますね。(笑)
 
 
このような議論があり、
 
また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、
軍は「撤退」することを決定。
 
 
 
しかし運命は日本に微笑みます。
 
ここから大事ですよ。
 
 
 
当時の艦船では、博多-高麗間は
南風の晴れた昼でなければ危険であり、
 
この季節では天気待ちで1ヵ月掛かることもある荒れやすい海域。
(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)
 
このような条件の下
元軍は「夜間の撤退」を強行したんです。
 
 
この撤退時に台風(神風)が来たとも長い間言われていましたが
最近は違うと言われています。
 
そもそも日本はメチャメチャやられたけれど
神風のおかげで元軍が壊滅して助かったとも言われていました。
僕も授業でそう習いました。
 
 
記録の10月20日は旧暦ですから現在の11月19日。
台風シーズン終わっているんです。わかりますよね。
 
11月中旬に台風は、まあ来ない。
ただ冬の玄界灘は普通に荒れるんです。
 

 
「玄界灘の荒波」って
僕の学校の校歌にもなっていたぐらいです。
 
地元福岡の人なら志賀島(福岡の最北端)の
海風の強さは遠足に行った子供達でも知っていますよね。
 
 
昔の武士たちは
自然を肌で知っていたでしょうから
当然、熟知しているはずですし
 
夜に海が荒れる事も知っていたかもしれません。
少なくとも漁師からの情報は得ているでしょう。
 
日本の一大事ですから。
 
 
日本軍の想像を越える勢いに押された元軍を
そのまま海まで撤退させるように、少なくとも最後は
意図的に追い込んだ可能性が高いですね。
 
 
その証拠になるかわかりませんが
 
『金剛集』によると、
10月21日の午前6時頃に元軍は博多湾から撤退した理由として
 
「夜間に日本側に300余騎の軍勢が現れたこと」を撤退理由としています。
  
夜討まで行って
徹底的に海から上がらせない作戦だったのかもしれません。
 
 
だとしたら、すごいですね。
 
 
そして侍達は海に撤退した元軍と
強い風が吹き始め、荒れ模様になりかけた西空を見ながら
こう笑った事でしょう。
 
 
 
 
「ふふふ、バッカだね~~ぇ♪」って。
 
 
 
 
結果
 
夜間、撤退中に海上は大荒れ。
 
 
多くの軍船が崖に接触して沈没。
 
高麗軍左軍使・金?が溺死するなど多くの被害を出すことになります。
 
 
まあ、この絵のような嵐とは思えませんが
そこそこな強風だったのだとは思います。
 
日本軍「大勝利」です。
 
 
 
元・高麗連合軍撤退後の状況
 
 
『金剛集』によれば
 
元軍が撤退した後の志賀島に元軍船1艘が座礁し、
乗船していた約130人の元兵が斬首又は捕虜となった。
 
元軍船100艘余りが至るところに打ち寄せられており、
元軍の杜肺子・白徳義・羡六郎・劉保兒の4名が捕虜となった。
 
 
『八幡愚童訓』の記述では
 
志賀島に座礁した兵船の大将は入水自殺し、
他の元兵たちは武器を捨てて船から投降し
生け捕られ、水木岸にて220人程が斬殺されたといいます。
 
対馬などにおける元軍の虐殺を、すでに伝え聞いていた日本軍側は
きっと見せしめはしっかり行ったでしょうね。 
 
 
 
 
 
 
さらに『安国論私抄』によると
 
11月24日に聞いた情報として
「蒙古の船破れて浦々に打ち挙がる」とし、
 
座礁した船数は、確認できたものだけで
 
対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、
志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘としています。
 
 
公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』によれば、
乗船していた元軍が大風に遭う様子を伝聞として
 
「賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、
俄かに逆風(南風)が吹き来たり、本国に吹き帰った」と記しています。
 
元軍の遭遇した大風については『薩摩旧記』にも、
「神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、
 乗船が或いは海底に沈み、或いは浦に寄せられる」
 
という記述があります。
 
また『歴代皇紀』では
10月20日に日本側の兵船300余艘が追撃したところ
沖合で漂流する元軍船200余艘を発見したことが記されており
 
『安国論私抄』では
11月9日にユキノセという津に暴風雨により死んだと思しき
元兵150人が漂着したとの記録があります。
 
元軍の捕虜については、
『勘仲記』(11月6日条)に
陸上に乗り上げた軍船に乗船していた元兵50余人が
鎮西東方奉行・大友頼泰の手勢に捕えられ、
京都に連行されてくるという伝聞を載せています。
  
 
 
関東の鎌倉政権の下に元軍が対馬に襲来した知らせが届いたのは、
日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後。
 
元軍撤退後に元軍の対馬襲来の知らせが関東に届いた理由は、
大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて12日半ほどは掛かったためです。
 
『勘仲記』(10月29日条)によると、幕府では対馬での元軍が
「興盛」である知らせを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを
総司令官として元軍討伐に派遣するか議論があり、
議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せています。
 
また、11月に入ってもなお未だ執権・北条時宗の下に
元軍の博多湾上陸および撤退の報が伝わっていなかったため、
時宗は元軍の本州上陸に備えて中国・九州の守護に対して
国中の地頭・御家人ならびに本所・領家一円(公家や寺社の支配する荘園等)の
住人等(非御家人)を率いて、
防御体制の構築を命じる動員令を発している。
 
このように幕府が元軍の襲来によって動員令を発したことで、
それまでの本所・領家一円地への介入を極力回避してきた幕府の方針は転換され、
本所・領家一円地への幕府の影響力は増大したといいます。
 
 
11月6日、京都に勝報がもたらされます。
 
 
『帝王編年記』には鎮西からの戦勝の報が載っており
それによれば

「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、この賊船を留める。
 志賀島において、この賊船を押し留めて、その他の蒙古軍を追い返した」

と報じたとのこと。

また、『五檀法日記』にも
同日の飛脚からの知らせが載っており
「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」
と飛脚は報じています。
幕府は戦勝の報に接すると論功行賞を行い、
文永の役で功績のあった御家人120人余りに褒賞を与えています。
 
 
 
元・高麗連合軍帰還と元側の評価
 
 
11月27日、元軍は朝鮮半島の合浦(がっぽ)まで帰還。
 
『呉文正集』によれば
 
後年、文永の役についてクビライとその重臣・劉宣の会話の中で
 
(文永の役にて)兵を率いて征伐しても、功を収められなかった。
有用の兵を駆り立てて無用な土地を取ろうというのは
貴重な珠を用いて雀を射落とそうとするようなもので、すでに策を失っている
 
と評しており、
 
文永の役に対する元側の作戦失敗の認識が窺えます。
 
 
また『元史』には日本侵攻の困難性について
 
たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても倭国は地広く、徒衆が多い。
彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。
万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、
ただちに海を飛んで渡ることはできない」とあり、
 
軍議における戦況認識にあるように、
日本側が大軍を擁しており、
 
集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、戦況が不利になった場合、
渡海が困難なため元軍の下に援軍が直ちに到着できないことを
 
日本侵攻の困難理由に挙げています。
 
撤退を決めた後、嵐に巻き込まれており
神風関係なく戦況は決まっていたことが伺えます。
あくまで嵐は副産物であり我々が学んできた

「神風によるラッキーな勝利」

ではないことを裏付けてくれています。
 
 
『安国論私抄』に記載されている
 
両軍の戦闘による損害は、
 
元軍の捕虜27人、首級39個、その他の元軍の損害を数知れずとする一方
すべての日本人の損害については戦死者195人下郎は数を知れずとあります。
 
また、『金剛集』によれば、両軍ともに戦闘による戦死者が多数。
 
その他、元軍側では
都元帥に次ぐ高級将校の管軍万戸・某が日本軍に投降しています。
  
 
『高麗史』表では
 
「十月、金方慶、元の元帥のクドゥン(忽敦)・洪茶丘等と与(とも)に日本を攻める。
 壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」と
 
文永の役を総評している。
 
また、南宋遺臣の鄭思肖は文永の役・弘安の役を評し
 
「まずクビライはシェリバ(失里伯)を遣わし、
 高麗を経て倭を攻める。
 人船ともに海に墜ちる(文永の役)。
 辛巳(1281年)六月、韃兵(モンゴル兵)は明州を経て海を渉(わた)る。
 倭口に至るが、大風雨に遭い、人と船が海に墜ちる。
 再び大敗し、すなわち帰る(弘安の役)」としている。
 
元・高麗の損害・状況
文永の役で元軍が被った人的損害は13,500余人にも上ります。

さらに人的被害だけでなく多くの衣甲・弓箭などの武具も棄てて失った。
僅かに収拾できた衣甲・弓箭は府庫に保管されたが、
使用に堪られるものではありませんでした。
 
 
 
 

拍手[2回]



強かった~~

甲斐キャノンもすごかった!
MVP!

今年はちゃんと見れましたよ。


この年末にきて、僕の大吉が回収されていくな・・・。



優勝おめでとう!!!

やったーー!


拍手[2回]

日本側の迎撃態勢
対馬から脱出した小太郎・兵衛次郎の二人の活躍に
より元襲来の情報を得ていました。

押し寄せる蒙古軍の敵情を仔細に収集し一族郎党が
全滅しながら一秒でもはやく着くために、三日三晩
船を漕ぎ続け、博多の総大将・景資に蒙古軍襲来を
報告したと言われています。
 
大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発すると
ともに九州の御家人が大宰府に集結していました。
 
ところが、薩摩や日向、大隅など南九州の御家人
たちは筑後川の神代浮橋(くましろうきばし)を
渡らなければならず、元軍の上陸までに博多に到着
することは難しかったのです。

これに対して筑後の神代良忠(くましろ よしただ)
は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州
の諸軍を速やかに博多に動員。神代良忠は、元軍撃
退に貢献したとして幕府から感状得ています。
 
 
博多湾上陸
10月20日、元軍は博多湾に襲来。
 
 
後に捕虜とした元兵の証言によれば、10月20日
に早良郡の百道原へ上陸。元軍の主力部隊である
蒙古・漢軍であった。
 
さて、ようやくここら辺から
地元民ならではの情報を入れていきます。
 
福岡での戦闘がどうであったのか?
 
現在も通じる地名がたくさん登場しますが、当時
の海岸線が現在とまったく違っており混乱します。
 
 
現在の福岡市都心部の地図。


平安・鎌倉時代の古地図。
 


有志が作った現在の海岸線との比較。
 


現在の天神・中洲や大濠公園など都心部は
ほぼ湾や干潟であり戦場となった場所が都心部
であった訳ではありません。
また、博多の町が焼き払われたと言われて
いますが実際に博多の街の被害は1次資料では
見られていません。
公家が伝聞を元に書いたものなどです。
 
上陸したとされる現在の百道浜は下の写真の
ように開発されましたがここはほぼ埋め立て
られており、当時の海岸線は写真よりずっと
左側になります。




早良郡の百道原より上陸した元軍は約3km東の
赤坂山(現在の福岡城跡)を占領し陣を布く。
赤坂は丘陵となっており博多攻防の戦略上の
重要拠点でした。
 



一方、日本軍は
総大将・少弐景資の下、博多の息の浜にほぼ
全軍が集結しており、そこで元軍を迎撃しよう
と待ち受けます。
 
右側の赤い大きな矢印の場所が息の浜。
本隊の場所です。



博多の息の浜に陣を布く日本軍の
総大将・少弐景資とその手勢。

 
 
日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた
理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、
騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには
不向きであるため、元軍が博多に攻めてくる
のを待って、一斉に騎射を加えようという
判断から。
 
ところが、日本軍の中には武功を望む武将の
鼻息がメチャメチャ荒いんです。

待ちくたびれたのかわかりませんが
作戦をまったく聞きません。
 
 
赤坂の戦い
赤坂に陣を布いたと知った、肥後の御家人

菊池武房

軍勢230余騎を率いてすぐに向かいます。



赤坂の松林に陣を布いた元軍数千、およそ
10倍の陣に
襲い掛かります。すごい。

当初は矢戦から始まったものと思われるが、
次第に白兵戦へと転換。その様子は、上に
なり下になりとり重なり打ち合うという
乱戦で、菊池詫磨軍は半分以上
約百数十名が死傷。

しかし元軍を上陸地点の早良郡のうちにある
麁原(そはら)へと敗走させます。
  
しかしさすがに半数の兵を失った彼は
敵将の首など戦果を得て本陣へ帰ります。

ここで後の世で有名になる人物とすれ違います。
肥後の御家人・竹崎季長とその主従合計5騎。
菊池軍が博多から赤坂へ向かった時、季長は
景資に元軍に対して先駆けを行うことを申し
出て、総大将の景資の許可をもらい出陣。

菊池と違って真面目です。

季長は手勢五騎で敵を求めて赤坂の元軍に
向かいますが西へ移動中に、赤坂での戦闘
で勝利した菊池武房勢100余騎と遭遇。

その様子が下の画像。
 
※多くの元兵の首を打ち取って帰陣する
菊池武房の手勢。
ちょ~カッケ~~って思ったはずです。 
 

赤坂の戦い追撃戦
赤坂の戦いで敗走した元軍の大勢は、
小高い丘である麁原山(そはらやま)が
ある麁原へと向かい陣を構え、小勢は
別府(べふ)の塚原に逃れます。

   

塚原に逃れた一部の元軍は、麁原の元軍
本隊に合流しようと早良郡にある鳥飼潟
(とりかいがた)を通って逃れようとし
ましたが、竹崎季長ら日本軍がそれを
追撃します。
 
 
しかし、竹崎季長は馬が干潟に足を取られて
転倒したため、元軍小勢を取り逃がして
しまいます。絵でも元軍は逃げていますね。
 
 
鳥飼潟の戦い
麁原一帯に陣を布いていた元軍は
銅鑼や太鼓を早鐘のように打ち鳴らして
ひしめき合っていました。
 
 
麁原山の元軍の様子
 
 
麁原山は現在祖原山となり公園として
整備されています。
 
 
 
これを見て先駆けを行おうとする竹崎季長に
対して、郎党・藤源太資光は「味方は続いて
参りましょう。お待ちになって、戦功の証人
を立ててから御合戦をなされよ」と諫言。
 
5人ですから。
 
しかし竹崎季長はそれを振り切り「弓箭の道
は先駆けを以って賞とす。ただ駆けよ」と
叫んで、元軍に先駆けを行います。
 
まさに、ちょwww待てよ!!ですね。
 
 
元軍も麁原から鳥飼潟に向けて前進し、
鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と
衝突します。
 
ここのシーンが有名なあの絵になります。
黒い馬にまたがるのが5騎で突っ込んだ竹崎李長。
 


僕らの学んだ元寇ではこの絵を根拠に
一対一で戦う原始的な戦いと教えられましたが
実はこの人の独走な訳です。
 
この絵巻は左右にさらに描かれており、右側に
集団で陣形を組み助けに入る白石軍勢の騎馬隊が
しっかりと描かれています。
 
 


戦後教育の自虐史観だったのかどうかは
わかりませんが少し前まで、当時の日本軍を
弱くみせたかったのかもしれません。
 
また、この国難に祈祷などが多いに
行われましたので軍が打ち負かしたというより
神風で救ったとしたかった神社側の
思惑もあったと思われます。
 
 
竹崎季長主従は、元軍の矢を受けて竹崎季長
三井資長、若党以下三騎が負傷するなど
危機的状況に陥ったが、後続の肥前の御家人
白石通泰率いる100余騎が到着し、
 
元軍に突撃を(上の集団戦をしかける騎馬隊)
敢行したため、元軍は麁原山の陣地へと
引き退くことになります。強いです。日本軍。
 
同じく鳥飼潟に駆け付けた肥前の御家人
福田兼重の文書によると、早良郡から元軍が
上陸したことを受けて、早良郡に馳せ向かうよう
武士らに下知が下り、早良郡へと向かった
福田兼重ら日本軍は、鳥飼潟で
元軍と遭遇して衝突。
 
豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)は
鳥飼潟の戦いにおいて奮戦しました。
 
これら武士団の奮戦により、元軍は鳥飼潟に
おいて日本軍に敗れ、上陸したとされる
百道原へと敗走していきます。
 
この鳥飼潟の戦いには、日本軍の総大将
少弐景資や大友頼泰が参加していたものとみられ
この戦闘に参加した武士も豊後、肥前、肥後、
筑後等九州各地からの武士の参戦が確認されるこ
とから、鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた
文永の役における一大決戦と思われます。
 
なお、文永の役の戦闘で、現存している
当時の古文書で記録があるのはこの鳥飼潟の戦い
のみであり、合戦に参加した竹崎季長が描かせた
『蒙古襲来絵詞』詞四に記載されている赤坂の
戦いとこの鳥飼潟の戦いが、文永の役の主戦闘
だったとみられます。
  
 
百道原・姪浜の戦い
鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を追って、日本軍は
百道原まで追撃をかけます。追撃に参加した
福田兼重は百道原において大勢の元軍の中に
馳せ入り、元軍と矢戦となり、鎧の胸板・
草摺などに三本の矢を受けて負傷しました。
 
この弓戦があった場所には現在小さな神社が
立っています。
  
その名も「弓田神社」。
 
『財津氏系譜』によると、この百道原の戦い
において、豊後の御家人日田永基らが奮戦し
百道原の戦いで元軍を破り、さらに百道原の
西の姪浜の戦いの両所で1日に2度、元軍を
大いに破ったといいます。
 
また、『武藤系図』少弐景資伝では、百道原
における矢戦の際に元軍の左副都元帥
劉復亨と思われる蒙古軍大将が矢で射止めら
れたとしており、中華民国期に編纂された
『新元史』劉復亨伝にも百道原で少弐景資に
より劉復亨が射倒されたため、元軍は撤退した
と編者・柯劭忞(かしょうびん)は述べています。
 
これらの史料から、元側の史料『高麗史』
の「劉復亨、流矢に中(あた)り先に舟に
登る」とは、百道原の戦いにおいての負傷で
あったとも考えられます。
 
両軍の戦闘は、朝8時頃の開戦で、
戦闘の終結は夕暮れの18時頃でした。
 
 
元軍は船へ引き返します。
 
 
 
「元寇」~その4~
 
 
 
 
少し休憩となります。ふう。



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前回
 
「元寇」~その1~
 
 
続き。
 
 
文永の役
 
1274年(文永11年・至元11年)
1月、クビライは大将軍・洪茶丘を高麗に派遣し、戦艦300艘の建造を開始。
5月、元から派遣された日本侵攻の主力軍15,000人が高麗に到着。
同月、クビライは娘を高麗国王・元宗の子に嫁がせ、日本侵攻を前に元と高麗の関係をより強固にする。
6月、高麗は元に使者を派遣し、戦艦300艘の造船を完了させ、軍船大小900艘を揃えて高麗の金州に泊めたことを報告。(高麗負担)
7月、高麗の元宗が死去
8月、新しく第25代高麗国王・忠烈王が即位。日本侵攻軍の総司令官にしてモンゴル人の都元帥が高麗に着任。
 
10月3日、モンゴル人の都元帥・クドゥンを総司令官として蒙古・漢軍15,000~25,000人の主力軍と高麗軍5,300~8,000、水夫を含む総計27,000~40,000人を乗せた726~900艘の軍船が、女真人の軍勢の到着を待って朝鮮半島の合浦(がっぽ:現在の大韓民国馬山)を出航。
  
  


  

 
 
対馬侵攻
10月5日、元軍は対馬に襲来。
対馬守護代・宗助国は通訳を通して元軍に事情を尋ねさせたが元軍は船から矢を放つ。

7、8艘の大型船より1,000人ほどの元軍が上陸し、宗資国は80余騎で陣を構え矢で応戦。対馬勢は多くの元兵と元軍の将軍と思しき人物を射倒し、宗助国自らも4人射倒すなど奮戦したものの、対馬勢は戦死。元軍は佐須浦を焼き払った。

 
同日、元軍の襲来を伝達するため、対馬勢の小太郎・兵衛次郎らが対馬を脱出し、博多へ出航。
 
 
対馬守護代・宗助国の戦死
 
 
対馬の惨状
『高麗史』金方慶伝によると、元軍・高麗連合軍は対馬に入ると島人を多く殺害した。
また、高麗軍司令官・金方慶の墓碑『金方慶墓誌銘』にも「日本に討ち入りし、捕虜が甚だ多く越す」とあり、多くの被害を島人に与えた。
  
  
この時の対馬の惨状について、役から2年後、日蓮宗の日蓮が当時の伝聞を記している。
 
・ 町を焼き払い、対馬・壱岐の人々のほとんどは殺された。
・ 山に逃れた島民をしつこく捜し、妊婦の腹を裂いては胎児を出す。
・ 乳呑み児の股を引き裂く。
・ 捕らえた男女の耳や鼻を削(そ)ぎ、苦しむさまを見て楽しむ。
・ 少年・少女200人を奴隷として拉致し高麗王へ献上。
・ 生け捕りにされた女性は手のひらに穴が開けられ、ひもを通し数珠つなぎにされ、日本の攻撃をかわす盾として船壁に並べられた。
 

 
 
ひどい話です。
 
この残虐な被害が伝えられていた為
弘安の役で台風により取り残された10万の元軍に対する日本軍の掃討作戦が、復讐を兼ねた恐ろしいものになったとも言われています。
 
 
壱岐侵攻


10月14日、対馬に続き、元軍は壱岐島の西側、写真の浦海海岸、天が原、湯の本方面海岸に上陸。
壱岐守護代・平景隆は100余騎で応戦したが敗れる。
10月15日、景隆は樋詰城で自害。
『高麗史』金方慶伝には、壱岐島での戦闘の模様が以下のように記されている。
 
 
元軍が壱岐島に至ると、日本軍は岸上に陣を布いて待ち受けていた。
高麗軍は敗走する日本兵を追った。
壱岐島の日本軍は降伏を願い出たが後になって元軍に攻撃を仕掛ける。
これに対して蒙古・漢軍・高麗軍諸将は応戦し、日本兵を1,000余り討ち取った。
 
日蓮は、この時の壱岐の惨状を「壱岐対馬九国の兵並びに男女、多く或は殺され、或は擒(と)らわれ或は海に入り、或は崖より堕(お)ちし者、幾千万と云ふ事なし」と記している。
 
その後の弘安の役を含む2回の戦闘で壱岐の人口は二桁までになったと言われています。
 
対馬、壱岐を侵した後、元軍は肥前沿岸へと向かった。
 
 
肥前沿岸襲来



10月16-17日、元軍は肥前沿岸の松浦郡および平戸島・鷹島・能古島の松浦党の領地に襲来。室町時代の日澄によれば、松浦党は数百人が伐たれあるいは捕虜となり、肥前沿岸の惨状は壱岐や対馬のようであったといいます。  
 
 
元軍は博多湾へ向かいます。
 
 
 
 
「元寇」~その3~





終わる気がしないぜ。


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