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TYLOR Blog

Tylor(タイラー)です。日常とFF11(長期休暇中)を綴っています。

「元寇」~その3~

日本側の迎撃態勢
対馬から脱出した小太郎・兵衛次郎の二人の活躍に
より元襲来の情報を得ていました。

押し寄せる蒙古軍の敵情を仔細に収集し一族郎党が
全滅しながら一秒でもはやく着くために、三日三晩
船を漕ぎ続け、博多の総大将・景資に蒙古軍襲来を
報告したと言われています。
 
大宰府から京都や鎌倉へ向けて急報を発すると
ともに九州の御家人が大宰府に集結していました。
 
ところが、薩摩や日向、大隅など南九州の御家人
たちは筑後川の神代浮橋(くましろうきばし)を
渡らなければならず、元軍の上陸までに博多に到着
することは難しかったのです。

これに対して筑後の神代良忠(くましろ よしただ)
は一計を案じて神代浮橋の通行の便を図り、南九州
の諸軍を速やかに博多に動員。神代良忠は、元軍撃
退に貢献したとして幕府から感状得ています。
 
 
博多湾上陸
10月20日、元軍は博多湾に襲来。
 
 
後に捕虜とした元兵の証言によれば、10月20日
に早良郡の百道原へ上陸。元軍の主力部隊である
蒙古・漢軍であった。
 
さて、ようやくここら辺から
地元民ならではの情報を入れていきます。
 
福岡での戦闘がどうであったのか?
 
現在も通じる地名がたくさん登場しますが、当時
の海岸線が現在とまったく違っており混乱します。
 
 
現在の福岡市都心部の地図。


平安・鎌倉時代の古地図。
 


有志が作った現在の海岸線との比較。
 


現在の天神・中洲や大濠公園など都心部は
ほぼ湾や干潟であり戦場となった場所が都心部
であった訳ではありません。
また、博多の町が焼き払われたと言われて
いますが実際に博多の街の被害は1次資料では
見られていません。
公家が伝聞を元に書いたものなどです。
 
上陸したとされる現在の百道浜は下の写真の
ように開発されましたがここはほぼ埋め立て
られており、当時の海岸線は写真よりずっと
左側になります。




早良郡の百道原より上陸した元軍は約3km東の
赤坂山(現在の福岡城跡)を占領し陣を布く。
赤坂は丘陵となっており博多攻防の戦略上の
重要拠点でした。
 



一方、日本軍は
総大将・少弐景資の下、博多の息の浜にほぼ
全軍が集結しており、そこで元軍を迎撃しよう
と待ち受けます。
 
右側の赤い大きな矢印の場所が息の浜。
本隊の場所です。



博多の息の浜に陣を布く日本軍の
総大将・少弐景資とその手勢。

 
 
日本側が博多で元軍を迎え撃つ作戦を立てた
理由は、元軍が陣を布く赤坂は馬の足場が悪く、
騎射を基本戦法とする日本の戦法で戦うには
不向きであるため、元軍が博多に攻めてくる
のを待って、一斉に騎射を加えようという
判断から。
 
ところが、日本軍の中には武功を望む武将の
鼻息がメチャメチャ荒いんです。

待ちくたびれたのかわかりませんが
作戦をまったく聞きません。
 
 
赤坂の戦い
赤坂に陣を布いたと知った、肥後の御家人

菊池武房

軍勢230余騎を率いてすぐに向かいます。



赤坂の松林に陣を布いた元軍数千、およそ
10倍の陣に
襲い掛かります。すごい。

当初は矢戦から始まったものと思われるが、
次第に白兵戦へと転換。その様子は、上に
なり下になりとり重なり打ち合うという
乱戦で、菊池詫磨軍は半分以上
約百数十名が死傷。

しかし元軍を上陸地点の早良郡のうちにある
麁原(そはら)へと敗走させます。
  
しかしさすがに半数の兵を失った彼は
敵将の首など戦果を得て本陣へ帰ります。

ここで後の世で有名になる人物とすれ違います。
肥後の御家人・竹崎季長とその主従合計5騎。
菊池軍が博多から赤坂へ向かった時、季長は
景資に元軍に対して先駆けを行うことを申し
出て、総大将の景資の許可をもらい出陣。

菊池と違って真面目です。

季長は手勢五騎で敵を求めて赤坂の元軍に
向かいますが西へ移動中に、赤坂での戦闘
で勝利した菊池武房勢100余騎と遭遇。

その様子が下の画像。
 
※多くの元兵の首を打ち取って帰陣する
菊池武房の手勢。
ちょ~カッケ~~って思ったはずです。 
 

赤坂の戦い追撃戦
赤坂の戦いで敗走した元軍の大勢は、
小高い丘である麁原山(そはらやま)が
ある麁原へと向かい陣を構え、小勢は
別府(べふ)の塚原に逃れます。

   

塚原に逃れた一部の元軍は、麁原の元軍
本隊に合流しようと早良郡にある鳥飼潟
(とりかいがた)を通って逃れようとし
ましたが、竹崎季長ら日本軍がそれを
追撃します。
 
 
しかし、竹崎季長は馬が干潟に足を取られて
転倒したため、元軍小勢を取り逃がして
しまいます。絵でも元軍は逃げていますね。
 
 
鳥飼潟の戦い
麁原一帯に陣を布いていた元軍は
銅鑼や太鼓を早鐘のように打ち鳴らして
ひしめき合っていました。
 
 
麁原山の元軍の様子
 
 
麁原山は現在祖原山となり公園として
整備されています。
 
 
 
これを見て先駆けを行おうとする竹崎季長に
対して、郎党・藤源太資光は「味方は続いて
参りましょう。お待ちになって、戦功の証人
を立ててから御合戦をなされよ」と諫言。
 
5人ですから。
 
しかし竹崎季長はそれを振り切り「弓箭の道
は先駆けを以って賞とす。ただ駆けよ」と
叫んで、元軍に先駆けを行います。
 
まさに、ちょwww待てよ!!ですね。
 
 
元軍も麁原から鳥飼潟に向けて前進し、
鳥飼潟の塩屋の松の下で竹崎季長主従と
衝突します。
 
ここのシーンが有名なあの絵になります。
黒い馬にまたがるのが5騎で突っ込んだ竹崎李長。
 


僕らの学んだ元寇ではこの絵を根拠に
一対一で戦う原始的な戦いと教えられましたが
実はこの人の独走な訳です。
 
この絵巻は左右にさらに描かれており、右側に
集団で陣形を組み助けに入る白石軍勢の騎馬隊が
しっかりと描かれています。
 
 


戦後教育の自虐史観だったのかどうかは
わかりませんが少し前まで、当時の日本軍を
弱くみせたかったのかもしれません。
 
また、この国難に祈祷などが多いに
行われましたので軍が打ち負かしたというより
神風で救ったとしたかった神社側の
思惑もあったと思われます。
 
 
竹崎季長主従は、元軍の矢を受けて竹崎季長
三井資長、若党以下三騎が負傷するなど
危機的状況に陥ったが、後続の肥前の御家人
白石通泰率いる100余騎が到着し、
 
元軍に突撃を(上の集団戦をしかける騎馬隊)
敢行したため、元軍は麁原山の陣地へと
引き退くことになります。強いです。日本軍。
 
同じく鳥飼潟に駆け付けた肥前の御家人
福田兼重の文書によると、早良郡から元軍が
上陸したことを受けて、早良郡に馳せ向かうよう
武士らに下知が下り、早良郡へと向かった
福田兼重ら日本軍は、鳥飼潟で
元軍と遭遇して衝突。
 
豊後の御家人・都甲惟親(とごう これちか)は
鳥飼潟の戦いにおいて奮戦しました。
 
これら武士団の奮戦により、元軍は鳥飼潟に
おいて日本軍に敗れ、上陸したとされる
百道原へと敗走していきます。
 
この鳥飼潟の戦いには、日本軍の総大将
少弐景資や大友頼泰が参加していたものとみられ
この戦闘に参加した武士も豊後、肥前、肥後、
筑後等九州各地からの武士の参戦が確認されるこ
とから、鳥飼潟の戦いは日本軍が総力を挙げた
文永の役における一大決戦と思われます。
 
なお、文永の役の戦闘で、現存している
当時の古文書で記録があるのはこの鳥飼潟の戦い
のみであり、合戦に参加した竹崎季長が描かせた
『蒙古襲来絵詞』詞四に記載されている赤坂の
戦いとこの鳥飼潟の戦いが、文永の役の主戦闘
だったとみられます。
  
 
百道原・姪浜の戦い
鳥飼潟の戦いで敗れた元軍を追って、日本軍は
百道原まで追撃をかけます。追撃に参加した
福田兼重は百道原において大勢の元軍の中に
馳せ入り、元軍と矢戦となり、鎧の胸板・
草摺などに三本の矢を受けて負傷しました。
 
この弓戦があった場所には現在小さな神社が
立っています。
  
その名も「弓田神社」。
 
『財津氏系譜』によると、この百道原の戦い
において、豊後の御家人日田永基らが奮戦し
百道原の戦いで元軍を破り、さらに百道原の
西の姪浜の戦いの両所で1日に2度、元軍を
大いに破ったといいます。
 
また、『武藤系図』少弐景資伝では、百道原
における矢戦の際に元軍の左副都元帥
劉復亨と思われる蒙古軍大将が矢で射止めら
れたとしており、中華民国期に編纂された
『新元史』劉復亨伝にも百道原で少弐景資に
より劉復亨が射倒されたため、元軍は撤退した
と編者・柯劭忞(かしょうびん)は述べています。
 
これらの史料から、元側の史料『高麗史』
の「劉復亨、流矢に中(あた)り先に舟に
登る」とは、百道原の戦いにおいての負傷で
あったとも考えられます。
 
両軍の戦闘は、朝8時頃の開戦で、
戦闘の終結は夕暮れの18時頃でした。
 
 
元軍は船へ引き返します。
 
 
 
「元寇」~その4~
 
 
 
 
少し休憩となります。ふう。



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無題

どもで~す
元の日本侵略の歴史だったんですね~!
私その辺は詳しくないですが^^;
当時ほぼ最強に近いクビライの軍勢を押しのけるのはやはり奇跡に近いのかな~と思います

そう言えば いまだチンギスハーンの墓も見つかってないと思いましたが。。。
今は亡き作家の開高健が亡くなる前にチンギスハーンの墓を探しにモンゴルに行きたいと思っていたと何かで読んだのを覚えています

モンドさんへ

こんばんは!
そう、これだったんですね~。

元はいい!ヴァナを写せ!!って声が聞こえてきそうですが・・・。

特にまだ書いていない2回目は本気ですからね。
それを上陸もまともにさせなかったってのは本当にすごいなっと。
お墓もまだでしたよね。モンさんの歴史談義もいつか聞きたい気もします^^
コメントありがとうです!少し休んでまた更新します!またヴァナで~~!!

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