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うはwのHP。のTylor(タイラー)です。日常とFF11を綴っています。

 
 
ご好評につき1年ぶりの続編です。
 
地味に僕のブログの中で
アクセスランキング高いんですよ。

クリックしてるのは福岡人ばかりでしょうけれどね。
  
 
FF関係ないなぁ(笑)
 
 
 
過去のエントリー

「元寇」~その1~
 
「元寇」~その2~
 
「元寇」~その3~


「元寇」~その4~
 
 
 
前回までの流れ
 
第一次元寇である
「文永の役」(1274年 10月5日~11月27日)
 
10月5日に朝鮮半島を出航した元軍はそのまま対馬、壱岐と占領し、
 
10月20日博多湾から九州に上陸し陣を敷きますが、
九州を領地とする侍達の反撃にあい赤坂の戦い、鳥飼潟の戦い、
百道原、姪浜の戦いと次々と敗走。
 
元軍に対して一騎討ちをする日本と教えられてきましたが
しっかり集団戦闘している絵画も残っていた事などご紹介しましたね。
 

 
街は蹂躙され奥地の太宰府近くまで攻められたという話もありますが
実際の戦闘記録は無く、今の都心部近辺で押し返された程度と考えられます。
 
 
両軍の進軍ルート
 
 
 

 
 
最終的に元軍の左副元帥・劉復亨が矢傷を負い1日で海上へ撤退。
 
 
 
 
 
 
ここまでです。日本軍めちゃ強い。
 
 
 
また、元軍が慌てて撤退していった様子を
 
日本側の史料『金剛仏子叡尊感身学正記』は
 
「十月五日、蒙古人が対馬に着く。
 二十日、博多に着き、即退散に畢わる」
と記しています。
来た当日に追い返す。ってどんだけだよ。
 
 
 
 
船に戻った夜。
 
 
 
『高麗史』金方慶伝によると
 
高麗軍司令官と元軍総司令官や右副都元帥との間で
以下のようなやり取りがありました。
 
 
高麗軍司令官
「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり、
本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は
却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。
 
我が軍は少なしといえども既に敵地に入っており、
我が軍は自ずから戦うことになる。
 
これは秦の孟明の『焚船』や漢の韓信の
『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい。
 
「元兄さん僕らめっちゃ頑張りますんで行きましょうよ」ってことですね。
 
 
元軍司令官
 
「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって、
少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、
多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。
 
疲弊した兵士を用い、日増しに増える敵軍と相対させるのは、
完璧な策とは言えない。
 
撤退すべきである」
 
「いやいや、めっちゃ人多いし強いし無理やろ、帰ろう」ってことですね。
 
 
あくまで高麗の記録なので自分達をカッコ良く書いてる可能性があり
嘘かほんとかわかりませんが
少なくとも敵のどちらかは日本軍に意気消沈しているのはわかりますね。(笑)
 
 
このような議論があり、
 
また左副都元帥・劉復亨が戦闘で負傷したこともあって、
軍は「撤退」することを決定。
 
 
 
しかし運命は日本に微笑みます。
 
ここから大事ですよ。
 
 
 
当時の艦船では、博多-高麗間は
南風の晴れた昼でなければ危険であり、
 
この季節では天気待ちで1ヵ月掛かることもある荒れやすい海域。
(朝鮮通信使の頃でも夜間の玄界灘渡海は避けていた)
 
このような条件の下
元軍は「夜間の撤退」を強行したんです。
 
 
この撤退時に台風(神風)が来たとも長い間言われていましたが
最近は違うと言われています。
 
そもそも日本はメチャメチャやられたけれど
神風のおかげで元軍が壊滅して助かったとも言われていました。
僕も授業でそう習いました。
 
 
記録の10月20日は旧暦ですから現在の11月19日。
台風シーズン終わっているんです。わかりますよね。
 
11月中旬に台風は、まあ来ない。
ただ冬の玄界灘は普通に荒れるんです。
 

 
「玄界灘の荒波」って
僕の学校の校歌にもなっていたぐらいです。
 
地元福岡の人なら志賀島(福岡の最北端)の
海風の強さは遠足に行った子供達でも知っていますよね。
 
 
昔の武士たちは
自然を肌で知っていたでしょうから
当然、熟知しているはずですし
 
夜に海が荒れる事も知っていたかもしれません。
少なくとも漁師からの情報は得ているでしょう。
 
日本の一大事ですから。
 
 
日本軍の想像を越える勢いに押された元軍を
そのまま海まで撤退させるように、少なくとも最後は
意図的に追い込んだ可能性が高いですね。
 
 
その証拠になるかわかりませんが
 
『金剛集』によると、
10月21日の午前6時頃に元軍は博多湾から撤退した理由として
 
「夜間に日本側に300余騎の軍勢が現れたこと」を撤退理由としています。
  
夜討まで行って
徹底的に海から上がらせない作戦だったのかもしれません。
 
 
だとしたら、すごいですね。
 
 
そして侍達は海に撤退した元軍と
強い風が吹き始め、荒れ模様になりかけた西空を見ながら
こう笑った事でしょう。
 
 
 
 
「ふふふ、バッカだね~~ぇ♪」って。
 
 
 
 
結果
 
夜間、撤退中に海上は大荒れ。
 
 
多くの軍船が崖に接触して沈没。
 
高麗軍左軍使・金?が溺死するなど多くの被害を出すことになります。
 
 
まあ、この絵のような嵐とは思えませんが
そこそこな強風だったのだとは思います。
 
日本軍「大勝利」です。
 
 
 
元・高麗連合軍撤退後の状況
 
 
『金剛集』によれば
 
元軍が撤退した後の志賀島に元軍船1艘が座礁し、
乗船していた約130人の元兵が斬首又は捕虜となった。
 
元軍船100艘余りが至るところに打ち寄せられており、
元軍の杜肺子・白徳義・羡六郎・劉保兒の4名が捕虜となった。
 
 
『八幡愚童訓』の記述では
 
志賀島に座礁した兵船の大将は入水自殺し、
他の元兵たちは武器を捨てて船から投降し
生け捕られ、水木岸にて220人程が斬殺されたといいます。
 
対馬などにおける元軍の虐殺を、すでに伝え聞いていた日本軍側は
きっと見せしめはしっかり行ったでしょうね。 
 
 
 
 
 
 
さらに『安国論私抄』によると
 
11月24日に聞いた情報として
「蒙古の船破れて浦々に打ち挙がる」とし、
 
座礁した船数は、確認できたものだけで
 
対馬1艘、壱岐130艘、小呂島2艘、
志賀島2艘、宗像2艘、カラチシマ3艘、アクノ郡7艘としています。
 
 
公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』によれば、
乗船していた元軍が大風に遭う様子を伝聞として
 
「賊船数万艘が海上に浮かんでいたが、
俄かに逆風(南風)が吹き来たり、本国に吹き帰った」と記しています。
 
元軍の遭遇した大風については『薩摩旧記』にも、
「神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、
 乗船が或いは海底に沈み、或いは浦に寄せられる」
 
という記述があります。
 
また『歴代皇紀』では
10月20日に日本側の兵船300余艘が追撃したところ
沖合で漂流する元軍船200余艘を発見したことが記されており
 
『安国論私抄』では
11月9日にユキノセという津に暴風雨により死んだと思しき
元兵150人が漂着したとの記録があります。
 
元軍の捕虜については、
『勘仲記』(11月6日条)に
陸上に乗り上げた軍船に乗船していた元兵50余人が
鎮西東方奉行・大友頼泰の手勢に捕えられ、
京都に連行されてくるという伝聞を載せています。
  
 
 
関東の鎌倉政権の下に元軍が対馬に襲来した知らせが届いたのは、
日本側が防衛に成功し元軍が撤退した後。
 
元軍撤退後に元軍の対馬襲来の知らせが関東に届いた理由は、
大宰府と鎌倉間が飛脚でも早くて12日半ほどは掛かったためです。
 
『勘仲記』(10月29日条)によると、幕府では対馬での元軍が
「興盛」である知らせを受けて、鎌倉から北条時定や北条時輔などを
総司令官として元軍討伐に派遣するか議論があり、
議論が未だ決していないという幕府の対応の伝聞を載せています。
 
また、11月に入ってもなお未だ執権・北条時宗の下に
元軍の博多湾上陸および撤退の報が伝わっていなかったため、
時宗は元軍の本州上陸に備えて中国・九州の守護に対して
国中の地頭・御家人ならびに本所・領家一円(公家や寺社の支配する荘園等)の
住人等(非御家人)を率いて、
防御体制の構築を命じる動員令を発している。
 
このように幕府が元軍の襲来によって動員令を発したことで、
それまでの本所・領家一円地への介入を極力回避してきた幕府の方針は転換され、
本所・領家一円地への幕府の影響力は増大したといいます。
 
 
11月6日、京都に勝報がもたらされます。
 
 
『帝王編年記』には鎮西からの戦勝の報が載っており
それによれば

「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、この賊船を留める。
 志賀島において、この賊船を押し留めて、その他の蒙古軍を追い返した」

と報じたとのこと。

また、『五檀法日記』にも
同日の飛脚からの知らせが載っており
「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」
と飛脚は報じています。
幕府は戦勝の報に接すると論功行賞を行い、
文永の役で功績のあった御家人120人余りに褒賞を与えています。
 
 
 
元・高麗連合軍帰還と元側の評価
 
 
11月27日、元軍は朝鮮半島の合浦(がっぽ)まで帰還。
 
『呉文正集』によれば
 
後年、文永の役についてクビライとその重臣・劉宣の会話の中で
 
(文永の役にて)兵を率いて征伐しても、功を収められなかった。
有用の兵を駆り立てて無用な土地を取ろうというのは
貴重な珠を用いて雀を射落とそうとするようなもので、すでに策を失っている
 
と評しており、
 
文永の役に対する元側の作戦失敗の認識が窺えます。
 
 
また『元史』には日本侵攻の困難性について
 
たとえ風に遇わず、彼の国の岸に至っても倭国は地広く、徒衆が多い。
彼の兵は四集し、我が軍に後援はない。
万が一戦闘が不利となり、救兵を発しようと思っても、
ただちに海を飛んで渡ることはできない」とあり、
 
軍議における戦況認識にあるように、
日本側が大軍を擁しており、
 
集団で四方より元軍に攻撃を仕掛けてくること、戦況が不利になった場合、
渡海が困難なため元軍の下に援軍が直ちに到着できないことを
 
日本侵攻の困難理由に挙げています。
 
撤退を決めた後、嵐に巻き込まれており
神風関係なく戦況は決まっていたことが伺えます。
あくまで嵐は副産物であり我々が学んできた

「神風によるラッキーな勝利」

ではないことを裏付けてくれています。
 
 
『安国論私抄』に記載されている
 
両軍の戦闘による損害は、
 
元軍の捕虜27人、首級39個、その他の元軍の損害を数知れずとする一方
すべての日本人の損害については戦死者195人下郎は数を知れずとあります。
 
また、『金剛集』によれば、両軍ともに戦闘による戦死者が多数。
 
その他、元軍側では
都元帥に次ぐ高級将校の管軍万戸・某が日本軍に投降しています。
  
 
『高麗史』表では
 
「十月、金方慶、元の元帥のクドゥン(忽敦)・洪茶丘等と与(とも)に日本を攻める。
 壹岐に至って戦い敗れ、軍の還らざる者は一萬三千五百餘人」と
 
文永の役を総評している。
 
また、南宋遺臣の鄭思肖は文永の役・弘安の役を評し
 
「まずクビライはシェリバ(失里伯)を遣わし、
 高麗を経て倭を攻める。
 人船ともに海に墜ちる(文永の役)。
 辛巳(1281年)六月、韃兵(モンゴル兵)は明州を経て海を渉(わた)る。
 倭口に至るが、大風雨に遭い、人と船が海に墜ちる。
 再び大敗し、すなわち帰る(弘安の役)」としている。
 
元・高麗の損害・状況
文永の役で元軍が被った人的損害は13,500余人にも上ります。

さらに人的被害だけでなく多くの衣甲・弓箭などの武具も棄てて失った。
僅かに収拾できた衣甲・弓箭は府庫に保管されたが、
使用に堪られるものではありませんでした。
 
 
 
 

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2016年12月13日からFF11に2度目の復帰。
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