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うはwのHP。のTylor(タイラー)です。日常とFF11を綴っています。
 
みなさん。ご無沙汰しています。

いきなりですが今日より数日に分けて
僕の「夏休み自由研究」をエントリーします。

 
皆さんご存じの
超有名な日本と福岡の一大事。

wikipediaやブログを中心に読んでいて
なかなか面白かったので
メモ代わりに少しずつまとめてみました。
  
なぜいきなり?っと言われてもわかりません。
睡眠時間を削っての突発的な行動。

まあ、ちょっと地域の歴史を
調べる機会があったのがきっかけかなぁ。

ヴァナにインもしていないや・・・
 
ふふふ。(怖)
  
  
  
  
「元寇」
 
  
鎌倉時代、モンゴル帝国5代皇帝

「クビライ=カアン」が
従えた高麗や南宋の兵をもって
2度に渡り日本に攻め込んだ戦い。
海外異民族との国運をかけた大きな出来事です。

 

 
 
神風が吹いて追い払ったっていう
有名なあれですね。
  
まさに戦場となった我が町福岡。

だからといって
特にこれといった集中授業がある訳でもないんすが
小さいころ何気なく遊んだり訪れた丘や緑地や神社
が元寇の史跡だったりすることを
大人になって知ることが多々あります。
 
 
早良区祖原山 元軍陣跡

 
もちろんすでに有名な歴史で
大河ドラマになったり漫画になったり
ブログのエントリーもいくつかありますが
僕も地元の観点からちょっと
書いてみたくなりました。
 
 
 
一般的に言われる元寇の文永の役は
このような感じ。
 
「1274年、高麗軍を含む元軍約3万が九州北部、現在の福岡県の博多湾に襲来。
元軍の集団戦法や「てつはう」と呼ばれる火器など、日本と全く異なった戦術
を得意としていた。元軍の統制のとれた戦術に対し、日本軍は一騎打ち戦法で
挑んでおり、非常に苦しい戦いを強いられる。しかし、元軍は暴風雨により退
却を呼びなくされた。この戦いの後、幕府は異国警固番役の教化、博多湾沿い
に、幅・高さ2m、総延長20kmに及ぶ巨大な防塁・石塁の構築などを行ってお
り、2度目の襲撃に備えた。引用終わり。」
 
 
日本側史料、元朝側史料、高麗側史料、
ヨーロッパ側史料などで歴史研究が進み
教科書で見知った内容とは違う内容が
色々と明らかになっています。

諸説あるのは大前提ではありますが・・・。 
  
  
それでは参りましょう。
   
 
中国の「南宋」を攻略中だったクビライは
硫黄などを含む交易をしてた「日本」へ、
南宋を孤立化する目的もあり、
自らに従わせるべく、まず「使者」を
向かわせることにしました。
硫黄などは火薬の材料となります。
 
そもそもマルコポーロなどの情報から
黄金の国と噂の日本に興味があったクビライ。
従えた高麗などからの進言もあり、
いずれにせよ侵攻するつもりではあったようです。
 
 
世界情勢

 
 
第一回使節
 
1266年(文永3年・至元3年)付で
日本宛国書である「大蒙古国皇帝奉書」を作成。
 

※っていう脅し文句入り
 
 
使節団を高麗を経由して
日本へ派遣したかったのですが
これが日本へは簡単には届きません。
 
高麗側は、人員と戦費の負担を嫌がり
対馬を望む海岸線から海の荒れ方を見せて

航海が危険だとか、日本人はかたくなで
荒々しく礼儀を知らないなど理由に

日本への進出は不要であると使節団を
説得します。
それになぜか納得した使節団は
高麗の官吏と共にクビライの下に帰朝します。
 
クビライは激怒します。当然でしょう。

高麗の元宗に
「しっかり責任を持って届けるように」
っと命令します。(^_^;) 
 
 
第二回使節
1268年(文永5年・至元 5年)正月、
怒られた高麗の使節団が大宰府に到着。
 
 
 
当時の大宰府の位置関係

 
現在の大宰府跡地
 
 
 
大宰府は1回目に渡せなかった恐喝まがいの
書状含む3通を受け取り鎌倉へ送達します。
鎌倉幕府ではこの年の3月に「北条時宗」
若干18歳が8代執権に就任したばかりでした。
 

 
当時、外交は朝廷の担当であったため
幕府は朝廷に国書を回送したものの対応を巡る
朝廷の評定は連日続けられる展開でグダグダに。
 
時宗率いる幕府も属国になれという
横暴な書状は無視をすることとし
国内には「蒙古人が日本を狙っており、
牒使を派遣してきたとして
蒙古軍の襲来に備えて用心するよう」
御家人らに通達。
 
鎌倉には南宋より禅僧も渡来しており、
モンゴル帝国の暴虐などの報告も
あったとされていました。
 
使節団は日本側の反応がないまま、
太宰府到来から7か月後に高麗へ帰還。
高麗は遣使の失敗の旨をクビライに報告。
 
しかし、クビライもクビライで
使節団の帰還を待たずして
「朕、宋(南宋)と日本とを討たんと
欲するのみ」と日本征服の意思を表明し、
高麗に戦艦1,000艘(そう)の造船を
命じています。
 
 
第三回使節
1269年(文永6年・至元6年)2月、
クビライは再び使節団を日本へ派遣。

高麗人の案内で総勢75名の使節団が対馬に上陸。
使節らは日本側から拒まれたため
対馬から先には進めず日本側と喧嘩になった際に
対馬島人の塔二郎と弥二郎という2名を
捕らえ、これらと共に帰還。(^_^;)
 
クビライは、使節団が日本人を連れて
帰ってきたことを大いに喜び
その2名に、多くの宝物を下賜し、
クビライの宮殿を観覧。

二人は感嘆。これを聞いたクビライは
さらに喜び、二人を首都・燕京
(後の大都)の万寿山の玉殿や
諸々の城も観覧させます。\(^o^)/
 
 
第四回使節
同年9月、捕えた対馬島人の
塔二郎と弥二郎らを首都・燕京(後の大都)
から護送する名目で使者として高麗人使節が
大宰府守護所に到来。
日本に明確に服属を要求。(>︿<。)

これに対して、朝廷の評定では、
モンゴル帝国の服属の要求を拒否する返事を
出すことを決定。

北条時宗率いる幕府は「無視」を決定!
朝廷に返事もしないことを上奏。
朝廷が幕府の提案を受け入れたため、
モンゴル帝国からの使節は返書を
また得ることに失敗し帰還。ヽ(^o^)丿
 
 
1271年(文永8年・至元8年)9月
元の支配に不満がある
高麗の軍組織「三別抄」が南方海上で反乱。
 
その三別抄は何故か日本に軍事的援助を乞う
使者派遣。
クビライの配下の国からの援軍要請に
朝廷は混乱たが時宗は援軍は送らなかった
とのこと。※1273年(文永10年・至元10年)
4月、元は高麗軍の主力をもって平定。
(三別抄の乱)日本は少し
時間稼ぎができました。
 
 
第五回使節
同年(文永8年・至元8年)9月、
三別抄の使者が到来した直後に
元使である女真人の趙良弼らが
モンゴル帝国への服属を命じる国書を
携えて5度目の使節として100人余りを
引き連れて到来。

クビライは、日本に近い高麗の金州に
軍勢を集結させるなど、今回の
使節派遣は軍事力を伴うものでした。
 
大宰府西守護所に到着したが、
日本側が大宰府以東への訪問を拒否!
やむなく国書の写しを手渡し、
11月末の回答期限を守らねば武力行使も
辞さないと最後通告。

さすがに無視はちょっとヤバいかと
朝廷は評定を行い、ひとまず先に
返書の代わりとして、日本の使節が
クビライのもとへと派遣されることに。

また返書はもらえないものの
日本使とともに帰還の途に就く。
 
 
同年11月、クビライは国号を
新たに「大元」と定める。
  
 
執権・北条時宗は、このような
モンゴル帝国の襲来の動きに対して以下の
ような防衛体制を敷く。
 
同年1271年(文永8年・至元8年)、
北条時宗は鎮西に所領を持つ
東国御家人に鎮西に赴くように命じ、
守護の指揮のもと蒙古襲来に備え
させ、さらに鎮西の悪党の鎮圧を命じた。
 
 
 
これがきっかけとなり、東国御家人は
漸次九州に土着していく。
  
 
1272年(文永9年・至元9年)、
12人の日本使(『元史』日本伝では26人)
が1月に高麗を経由し、元の首都・大都を訪問。後の北京。
 
 
 
   
 
元側は日本使は偵察だと判断し、
クビライへの謁見は許さなかった。
高麗に駐屯する元軍が日本側を
警戒さていることを知った元の丞相
アントンは日本使に対し、その軍は高麗で
反乱を起こした三別抄に
備えたものと説明するようクビライに進言し、
クビライは採用。
大都を後にした日本使は、
4月に高麗を経由して帰国。
 
 
第六回使節
1272年(文永9年・至元9年)4月又は12月、
元使である女真人の趙良弼ら
は、6度目の使節として再び日本に到来。
 
使節団が到来すると日本の「国主」は
クビライ宛に返書し和を議そう
としたが、南宋より派遣された
渡宋禅僧・瓊林(けいりん)が帰国して
趙良弼らを妨害したため、趙らは
またまた返書を得ることができなかった。
さらに趙良弼らは大宰府より
日本の国都(京都)に入ることができなかっ
たことから、再び元に帰還した。
 
日本に未到着のものも含む合計6回、
日本へ使節を派遣したが、ほぼ無視。
結局返書は出さなかったわけです。
ここがすごいですね。
 
キレたクビライはついに「武力侵攻」を
決断しますが
趙良弼に日本侵攻の無益を説かれ一度従います。
優しいです!
 
 
1272年(文永9年・至元9年)、
北条時宗は異国警固番役を設置。

元軍の襲来が予想される筑前・肥前の要害警護
および博多津の沿岸警固。
同年2月、北条時宗は後嵯峨上皇没直後の
二月騒動で庶兄・北条時輔等を
粛清し幕府の統制強化。
なお、『高麗史』によると、日本側が高麗に
船を派遣して、諜報活動を
行っていたと思われる記述もあります。
すごい・・・。
 
 
1273年(文永10年・至元10年)にクビライは
前言を翻し、日本侵攻の準
備を開始。この時点で、元は南宋との
5年に及ぶ襄陽・樊城の戦いで勝利し、
南宋は元に対抗する国力を失っていた。
また朝鮮半島の三別抄も元に滅ぼされており、
軍事作戦を対日本に専念させることが
可能となっていました。

ついに日本大ピンチです!!!!
  
 
とりあえず第一回はここまで。
 
ってかモンゴル・・・グダグダ・・・
全然進んでいないぜ・・・。
 
 
計り知れないほどの強敵に対して
ここまで無視って

「北条時宗」カッコいい!!
 
 
 
 
その2へ続く。



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2016年12月13日からFF11に2度目の復帰。
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