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うはwのHP。のTylor(タイラー)です。日常とFF11を綴っています。
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「元寇」~その1~

 
「元寇」~その2~
 
「元寇」~その3~

「元寇」~その4~


神風について


何度も書いていますが
 
これまでの元寇に対する認識は

「神社」の記録である
『八幡愚童訓』のイメージが大きいと思われます。
 
しかしこれは事実に基づく内容というよりは
神社側が都合よく作り上げた「ほぼ作り話」です。
 
 
例えば以下のようにあります。
 
 
「上陸し馬に乗り旗を揚げて攻めかかって来た元軍に対して
 鎮西奉行・少弐資能の孫・少弐資時がしきたりに則って
 音の出る鏑矢を放ったが
 元軍はこれを馬鹿にして笑い
 太鼓を叩き銅鑼を打って鬨の声を発したため
 日本の馬は驚き跳ね狂ったとしている。
 
 また、元軍の弓矢は威力が弱かったが、
 鏃に毒を塗って雨の如く矢を射たため、
 元軍に立ち向かう術(すべ)がなかった。
 
 元軍に突撃を試みた者は、元軍の中に包み込まれ
 左右より取り囲まれて皆殺された。
 
 元兵はよく奮戦した武士の遺体の腹を裂き、
 肝をとって食べ、また、射殺した軍馬も食べたという」
 
 
はい。
 
元軍は早朝、上陸後陣を作り
夕方には海に撤退している事実を思い出して下さい。
 
大忙しです。
 
先の戦闘が敵味方の資料から事実として残っている以上
遺体を食べるなどというホノボノとした時間的余裕はありません。
 
日本軍、テンション高いしバンバン来てますから。
 
繰り返しになりますが
元軍が苦戦し撤退した様子は『高麗史』の記載の他
日本側の史料でも同様の記載が確認できます。
 
文永の役当時の鎮西からもたらされた飛脚の報告が
載っている日本側の史料『帝王編年記』によれば
 
「去月(十月)二十日、蒙古と武士が合戦し、賊船一艘を取り、
 この賊船を留める。志賀島において、この賊船を押し留めて、
 その他の蒙古軍を追い返した」とあり、
 
同じく飛脚の報が載っている『五檀法日記』においても
 
「去月(十月)十九日と二十日に合戦があり、二十日に蒙古軍兵船は退散した」
 と、交戦した武士らが中央政権に対して
 軍事的に元軍を撃退したことを報告しています。
 
また、他の史料と日にちに差異はありますが
『関東評定衆伝』でも
 
「(文永十一年)十月五日、蒙古異賊が対馬に攻め寄せ来着。
 少弐資能代官・藤馬允(宗資国)を討つ。
 同24日、大宰府に攻め寄せ来たり官軍(日本軍)と合戦し、
 異賊(元軍)は敗北した」と明確に日本軍の勝利と元軍の敗北が確認できます。
 
 
鬼畜な元軍に対して日本軍はボロ負けだったが
祈祷により“神風”があり勝利した。
 
「神仏にお祈りを捧げた為、この国は守られた。 武士は必要ない。」
 
そんな神社側の主張のために

“神風”

を最大限利用したと考察されます。
ここまで後の世に利用されるとは当人達も思っていなかったでしょうけれど。
 
 
さらに元軍の撤退理由についてはこう書かれています
「日本軍が逃げ去った夕日過ぎ頃
 
八幡神の化身と思われる白装束30人ほどが出火した筥崎宮より飛び出して
矢先を揃えて元軍に矢を射掛けた。
 
恐れ慄いた元軍は松原の陣を放棄し海に逃げ出したところ
海から不可思議な火が燃え巡り
その中から八幡神を顕現したと思われる兵船2艘が
突如現れて元軍に襲い掛かり元軍を皆討ち取り
たまたま沖に逃れた軍船は大風に吹きつけられて敗走した」

としています。
 
 
まあ、精霊信仰である日本で
何かのおかげでそうなったと思う思想は
今でも通じるものがありますし

まさか1日で逃げていくなんて思ってもいませんでしょうから
遠く離れた安全な都で祈祷ばかりしている方々にしてみたら
話を盛るにはいい事案だったのでしょうね。
 
残虐極まりないモンゴル軍がと来ると
渡来僧から散々聞いていてうわさがある状態。
 
鬼か何かが来ると言われていたかもしれません。
 
戦う武士たちを横目に死ぬ気で祈祷していたら
太宰府から日本軍快進撃と強風で壊滅の知らせ。
 
「これって自分達の祈祷のおかげじゃね?」
 
って思ったかもですね。
 
敵も弱いと話になりませんから鬼強だったと言うしかない。
当時の武士と公家の勢力争いとしての情報戦かもしれません。
 
「もし、この時に日本の軍兵が一騎なりとも
控えていたならば、八幡大菩薩の御戦とは言われずに
武士達が我が高名にて追い返したと申したはずだろう」
 
としながら
 
「元軍がひどく恐れ、あるいは潰れあるいは逃亡したのは、
偏に神軍の威徳が厳重であったからで、
思いがけないことがいよいよ顕然と顕われ給ったものだと、
伏し拝み貴はない人はなかった」と結んでいます。
 
 
公家の広橋兼仲は、日記『勘仲記』の中で

「逆風の事は、神明のご加護」と神に感謝していたり

1276年(建治2年・至元13年)の官宣旨の文言の中にも

「蒙古の凶賊等が鎮西に来着し合戦をしたのだが、
 神風が荒れ吹き、異賊は命を失い、船を棄て或いは海底に沈み、
 或いは入江や浦に寄せられた。これは即ち霊神の征伐、観音の加護に違いない」

とあり、当時から暴風雨を神の仕業とする認識が存在していたことは伺えます。
 
そうした思想の中で

戦地から遠い都などの人々からすると
リアルな武士の戦闘よりも
神風の方が話題性もあり、信じやすかったのかもしれませんね。
 
実際、幕府も
各神社が自ら語る「祈祷で風を起こしたなどというような」軍功に対して
神領興行令と呼ばれる徳政令を各社に対して3度も発布し、
恩賞に当てていますし。
 
欲も悪くも、この神風は戦時中まで長く政治に利用されていきます。 
当時の武士たちの活躍にもう少し
スポットライトが当たるといいんですけどね~~。
 
 
 
 
おまけですが
文永の役において戦艦・軍隊・兵糧などを支給した「高麗」は、
国力を極度に悪化させ疲弊したそうです。
高麗からクビライの下へ派遣された金方慶、印公秀は、
三別抄の乱を鎮圧するための大軍に多くの兵糧を費やしたこと、
加えて民は日本征討(文永の役)による戦艦を修造するために、
働きざかりの男たちはことごとく工役に赴き、
日本征討に加わった兵士たちは、
戦闘による負傷と帰還中の暴風雨により
多くの負傷者・溺死者を出すなどしたために
今では耕作する者は僅かに老人と子供のみであること
さらに日照りと長雨が続いて稲は実らず民は木の実や草葉を採って
飢えを凌ぐ者があるなど、

「民の疲弊はこの時より甚だしい時はなかった」

といった高麗の疲弊した様子を伝えています。

そして、再び日本征討の軍を挙げるならば
小邦(高麗)は戦艦・兵糧の支給には耐えられないと
クビライに訴えたそうです。
 
 
ってか 
元軍が撤退したがっていた時に「ガンガン行こうぜ!」って
ノリノリだったので自業自得かもですけどね。
 
 
文永の役のお話はここまで。
 
まあ、ウィキを映して
まとめただけだけど。
 
 

 
次までやるかはちょっと不明。
 

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